AACK人物抄
伊藤愿(イトウスナオ)(1908-1956) 平井一正
1973年、AACKがヤルンカンに遠征したとき、伊藤愿さんの遺影を西堀隊長が房子夫人にたのんでもらってきていた。隊長はしんみりとして言った。「これをヤルンカンの頂上に埋めてきてほしい」。5月14日松田と上田は小雪まじりの頂上にたった。松田が雪にさしこんだ写真のセルロイドケースを、上田はピッケルのシャフトでコンコンとたたいて埋め込んだ。このエピソードは、いかに伊藤さんのヒマラヤへの大きい思いが、時代をこえて我々に受け継がれているかを物語る。(伊藤愿、ヒマラヤに挑戦して、92年に中公文庫で再発行、ここで上田豊が解説している)
それでは伊藤愿さんはどういう人であったか、パウル・バウアーの「ヒマラヤに挑戦して」の翻訳者であり、この本に書かれていた遠征費用から、ヒマラヤ行が具体的に動き出したこと、ポーラーメッソドを極地法と訳し、富士山で実践したこと、1936年に、AACのK2登山の許可交渉のため、インドで交渉を行ったこと(今西:ヒマラヤへの道、中央公論社)などという断片的なことを除いて、ほとんど知らないと言ってもいいだろう。 AACKの歴史にも関係する重要な人物であり、その登山活動からも、知的活動からも、また国際人としてもすばらしい登山家であったことが想像できるが、我々の先輩としてもっとよく知る必要がある。そういう動機から、資料を調査し、房子夫人にもお目にかかってお聞きした結果をまとめてここに記す。(以下敬称略)
T、 略歴(文献1)
伊藤は1908年兵庫県香住町の不在地主の長男としてに生まれた。弟と妹がいたが、妹は小さいときに亡くなっている。弟は三高を出て医者になり、晩年は薬屋をしていたという。同志社中学、旧制甲南高等学校を経て、1932年(昭和7年)京都大学法学部を卒業、大阪朝日新聞社に入ったが、社会部の警察廻りに嫌気をさして退社。昭和8年、高文(高等試験行政科試験)にパス。松方さんや浦松さんが関係していた大平洋問題調査会の研究員として中国へ。北京駐在員として中国経済研究に従事。36年7月から37年4月までヒマラヤ登山交渉のためインドへ。帰国後再度中国へ。北支の最高経済顧問だった平生釟三郎(甲南高校創始者)の秘書、興亜院事務官などを経て、終戦のときは青島の領事をしていた。インドに行った期間を除いて、終戦までの生活はほとんど中国であった。帰国して、内閣、経済安定局、外務省、建設省、大蔵省を歴任。1951年、土木事業の行政制度および法規等の調査研究のため、欧米に3ヶ月の出張を命じられ、余暇にスイスアルプスで登山、ミュンヘンでバウアーと歓談。類い希なる人材であったが1956年11月ガンのため没。享年48歳の惜しまれる死であった。
U、甲南高校での登山
旧制甲南高校はいまの甲南大学であるが、伊藤は甲南に来てから登山をはじめ、やがて登山界の第一線におどりだす。高校1年の夏(1926年、大正15年)、はじめて燕、槍が岳を縦走、同年冬、スキーをはじめる。芦屋ロックガーデンで岩登りの腕をみがいた伊藤は、翌年夏、単独で滝谷を登り、続いて小槍の単独登攀に成功する。滝谷は2年前に早稲田隊による初登攀以来の登攀であり、小槍は4年前に慶応が登ったところである。そこを若い高校2年生が単独で登ったということで、当時の岳界に衝撃を与えた。このときの彼の徳本峠からたどったトレースを後述する山歴の表に示したが、まさに驚異的な山行きである。
伊藤の山歴は後に示すが、その中でも特筆すべきは、1928年(昭和3年)5月の槍から立山への縦走である。いくら5月とはいえ、装備、食料など今日とは比べものにならないほど重く、雪中露営の知識も乏しい時代に、積雪期に尾根筋を長期縦走するという形式は、着想といい、実行力といい、当時としては画期的であった。
興味あるのは伊藤は大島亮吉の遭難に遭遇していることである。同年1928年3月23日に伊藤は人夫今田重太郎と槍に登った。その帰途25日に北尾根を登っていた慶応の大島亮吉が遭難し、それを知った彼は遺体捜索の応援に行っている。余談であるが、今西は大島と面識はないが、大島を登山界の鬼才として最大の尊敬を抱いていた。この両雄が手を組んで仕事をするようなことがあれば、日本の登山史は変わっていただろう。それだけに大島の死は大きい衝撃を与えた。(田口二郎、東西登山史考、岩波、95年)
伊藤は学究の登山家でもあった。山岳気象と雪中露営の問題にとりくんでいて、その成果は「アルペンクリマについての一断片」(甲南高校山岳部報第二号)、「雪中露営の諸問題」(関西学連創刊号)などにみることができる。
伊藤は現在の甲南大学山岳部の先輩でもあり、いま歌われている山岳部部歌も伊藤の作詞である。旧制甲南高校を卒業してAACK会員になっている人は、伊藤のほかに西村格也、喜多豊治などがいる。
V、京都大学での活躍
常に創造的でパイオニアワークを目指していた伊藤が、大学を京大にしたのは当然の帰結であった。よき土壌をえて、伊藤は思う存分力を発揮する。彼が大学3年生のとき、1931年12月、パウル・バウアーのカンチェンジュンガ登山の報告書の和訳「ヒマラヤに挑戦して」を出版する。これはAACKのヒマラヤ熱に火をつける結果になる。(出版社の黒百合社は、日本山岳会の会員中原繁之助さんが営利を度外視して経営に当たっていたー島田巽:山・人・本、茗渓堂、76年)。さらに同年暮れから正月にかけて、西堀をリーダに富士山に極地法を展開し、頂上に3晩過ごす。このときの登山の方法は、我が国ではじめての試みであり、これを伊藤がアサヒスポーツで発表したとき、はじめて極地法という名前を使った(アサヒスポーツ、昭和7年2月)。隊員と荷物の輸送はヒマラヤでも十分通用するものであり、時代を先取りするものであった。今西は言う。「新しい形式が極地法でなくてはならぬことは自分たちにも良くわかっていた。しかし如何に実現するか、これについての具体案を示して実行に移したのは、誰あろう愿だった。自分たちが愿から教えられたところはまことに多い」。伊藤に対する最上級の賞賛であろう。
上記二つのできごとの他に、1931年6月にはAACKが結成された年でもある。伊藤はこの結成に事務局長的な働きをした。これらの活動に伊藤はすべてに関わっており、彼がAACKの創設からその後の活動に果たした役割は非常に大きい。
すべてはヒマラヤにそのエネルギーのベクトルが向いていた。そしてそれは1932年のカブルー計画として発展する。しかし満州事変のためにこの計画は挫折する。
房子奥様から聞いた秘話を紹介する。あるとき平吉功が転落し、行方不明になったことがある。すんでのところで捜索隊がひきあげるところまでいったが、伊藤が最後に逆さまになっている平吉を発見し、危ないところで一命を救った。その場所がはっきりしないが、伊藤が平吉とザイルを組んだ登攀で有名なのは1931年10月の鹿島槍北壁初登攀である。しかしこのときの記録(関西学生山岳連盟報告、第3号、1931年)を読んでも、それらしい記述はないので、多分別の場所と思うが、興味ある話である。
W、卒業後
伊藤は昭和7年(1932年)京大を卒業後、ずっと中国にいて、白頭山などの遠征には参加していない。一方今西らはK2計画をすすめ、1936年北京の伊藤を呼び戻し、K2の許可を取りにインドに派遣する(文献2,3)。このとき加藤泰安も同行の予定であったが、費用が足らず伊藤ひとりの派遣となる。費用は田中喜左衛門や奥貞雄らのカンパによった(文献4)。現地では岸本商店が助けた。伊藤がヒマラヤンクラブのセクレタリーに会うとき、入室のサイン帳にGen.Ito と書いたことから、「ゼネラル伊藤か」と言って、すっかりゼネラルにされてしまい、歓迎されたという逸話がある。しかし日中戦争勃発のため、伊藤の努力も実らなかった。伊藤のインド派遣に関する資料は乏しく、奥様がきいても多くを語ってくれなかったという。因みにK2のサミッターのひとりに谷博の名があがっていたという(今西武奈太郎談)。当時のAACKの隊員候補で岩登りで有名であったのは谷と伊藤くらいであろう。
終戦のとき、伊藤は中国の青島にいた。敗戦の混乱の中で、彼はひとり奮闘して、青島にいた日本人に、海軍から調達した食料を配給した。知られざる秘話である。しかし彼は麻袋を盗んだというあらぬ濡れ衣で密告され、中国官憲に逮捕され、130日ほど監獄に入れられた。そして昭和21年、最後の便で帰国を果たした。帰りの船で、密告した憲兵と会ったが、疲労していたために追求する元気もなかった。奥様はさきに昭和20年12月に帰国している。
X、戦後の活躍
帰国後、彼は中央官庁でエリートの道をすすむ。1951年に欧米に視察を命じられ、その間、スイスアルプスで遊んだ期間は楽しいものであったに違いない。1951年の夏、訪欧中の松方三郎、島田巽(朝日新聞ロンドン特派員)と伊藤はグリンデルヴァルトで落ち合い、そこで愉快な3日を過ごした(文献5,6)。平和条約もまだ締結されていない時代、当時のアルプスは日本人にとって夢のような世界であった。松方にとっては25年ぶり、あとの二人にとってははじめてのアルプスであった。彼らと別れてから、伊藤はガイドと共にウェッターボルンに登った。実に20年ぶりの山登りであった。
それに自信をつけた伊藤はマッターホルンに登ることになる(文献7)。予約していたガイドが来ないので、単独で、あそこまで、あそこまでというつもりで登っていったら、頂上についてしまった。もちろんガイドブックでルートを諳んじていたこともあろうが、若いときに岩登りで鍛えた力が十分に発揮されたことと思う。
(1951年夏 ツェルマット郊外にてマッタ−ホルンをバックに)
ミュンヘン滞在中にパウル・バウアーと面会し、歓談したことも快挙である。当時バウアーは60歳をこえた初老であったが、日独の登山界の話や次のヒマラヤ遠征など話がはずんだ。ババリア隊はカンチとナンガの両方に手をつけているが、どっちかを譲ってもらえないかと切り出した。この次にドイツが行くのはカンチになるだろう、と言われ、それなら日本に帰って山のグループからヒマラヤのどれがいいか意見を求められたら、ナンガをあげていいかと念を押した・・・など報告されている。伊藤がそのときなおヒマラヤに情熱を持っていたことが伺える(文献8)。
(1951年夏グリンデルワルトのブラバンド邸にて中央左伊藤愿氏、その右松方三郎氏、右側はサミエル・ブラバンド夫婦、左はブラbンド氏の長女エリザベ−トさんとその夫君、島田巽氏撮影)
伊藤はその岩登りの記録から見ても、AACKでは出色の登山家であり、それだけに、もし伊藤が病に倒れなかったら、必ずや戦後のAACKのヒマラヤ遠征に参加され、我々後輩に大きな刺激を与えてくれたと思う。その夭折が惜しまれてならない。
Y、山歴(文献1)
伊藤は学生時代から登山界の第一線で活躍している。簡単にその主な山行きを書くと次のようである。
1926年
4月 甲南高校入学、山岳部に入部
8月 燕―槍縦走(香月らと)
1927年
7月 滝谷、小槍登攀(単独)、 徳本峠―上高地―中尾峠―蒲田―錫杖―蒲田―槍平―槍―南沢―槍平―滝谷―穂高小屋―白出沢―槍平―槍肩の小屋―小槍―涸沢岩小屋―前穂―上高地
1928年
3月 上高地―一ノ俣小屋―槍ヶ岳往復―横尾―北穂、途中大島亮吉の遭難の報に接し、遺体捜索―上高地(人夫今田重太郎と)
5月 常念―槍―槍平―三俣蓮華―薬師―立山、ツエルトによる。‘(辻谷、今田ら5人と)
1929年
3月 上高地―善六沢―西穂高(単独)、上高地生活、槍、前穂、西穂(西村、香月ら)
4月 京大入学
5月 早月尾根と八つ峰 (高橋健治らと)
1930年
7月 ジャンダルム飛騨尾根初登攀(田口一郎と)
7月 北鎌尾根(喜多と)
1931年
3月 八方尾根―五竜―鹿島槍初縦走(工楽、長谷川清三郎と)
10月 鹿島槍北壁初登攀(藤田、平吉と)
12月 「ヒマラヤに挑戦して」出版
12月 富士山を極地法で登る(西堀、今西らと)
1932年3月 京大法学部卒業
1936年5月 K2許可取得のためインド、カラコルム入りの内諾をとる
1946年3月 中国から帰国
1951年7月〜8月 ヴェターホルン、マッターホルン(単独)、
1956年1月 病没
Z、結婚
日高信六郎(元日本山岳会会長)が出張して北京飯店に泊まっていたとき、伊藤が訪ねてきた。「いま結婚を勧められ、自分もその気になっているが、なにぶん先年ヒマラヤ登山を思い立ったとき、成功するまでは結婚しないと仲間同志約束した手前、どうも踏み切れない」と浮かぬ顔である。「そんなことを気にすることがあるものか、戦争などという不可抗力で実現できなかったものが、何で結婚の妨げになろうか、それほど気になるなら、しらみ潰しにその仲間に当たってみたまえ、良縁を心から祝福はしても文句を言う奴なんか一人もいないよ」というと、そうでしょうかとまだ気がかりな様子、何とも言えないいい山男だと胸を打たれた。(文献9)。
こういう経緯があって伊藤は昭和17年に房子夫人と結婚した。夫人は松方コレクションの松方幸次郎の孫であり、媒酌は松方三郎である。戦争中のことでもあり、明治神宮で簡単な式をすませただけであった。女三人、男一人の子供に恵まれ、現在長男は日航に勤務されている。
愛妻家であった。欧米出張中6ヶ月の間、奥様に99通のたよりをよせたそうだ(文献10)。そのコピーは今も夫人の手元にある。
房子奥様は現在86歳、青梅の慶友病院におられる。若いときはきっと可愛い、美人であられたと思わせる。今もしっかりして記憶力も抜群であり、曾孫にも恵まれた幸せな老後を送っておられる。
[、その他
日本山岳会名誉会員織内信彦さんによる伊藤の思い出を紹介する(文献11、文体一部変更)。
伊藤愿さんが、一人で小槍を登った記録と、穂高の滝谷を単独で登り、北穂高へ出て南沢を飛騨側へ下りた、そしてまた白出谷を上って穂高を縦走したという紀行文を読んで、非常に感銘を受けた。「こういう山登りをしてみたい」と思っていたら、一、二年後涸沢の岩小屋に私が滞在していたときに、後から4人ばかりやってきて「まだ入れますか」と言う。「入れますよ」「じゃお邪魔します」と言って入ってきた。岩小屋といっても小さく、中では立って歩けない。座って頭がつかえる位で、横になるだけ。話しているうちにその一人が伊藤愿さんとわかった。そのときは京都大学に行っておられた。
「私も小槍を登ってきました。伊藤さんが打たれた正面のチムニーに入る手前のハーケンを利用して登ってきました。あれがあったので、とても助かりました」というと「あれはもう抜いてきてもらったほうがよかったかも知れない」と言われたことを覚えている。
それから天気が悪くなって一週間ばかり風雨が続いたので穂高小屋へエスケープしたが、私は剱へ行く予定があったため、2日ほどいて下山した。伊藤さんはそのまま残って、結局、そのときに田口一郎氏と二人でジャンダルムの飛騨尾根の初登攀をやっている。(後略)
やがて戦争が終わって、お茶の水のクラブルームの屋根裏部屋で「土曜会」があったとき、伊藤さんがひょっこり表れたことがあった。(中略)そのとき「伊藤さんとは、昭和5年に涸沢の岩小屋でしばらく一緒になりました」というと「覚えていますよ」を言われて嬉しかった。(後略)
以上稿を起こすに当たって、甲南大学山岳会越田和男様には数々ご教示賜り、また文献などでたいへんお世話になった。また同平井吉夫様には房子様訪問に際してお世話になった。また梅棹忠夫様にはいろいろと教えていただいた。記して感謝の意を表す
文献
1)越田和男:伊藤愿氏山の履歴書、山嶽寮(甲南山岳会)No.59,2004
2)伊藤愿:滞印日記抄、甲南高校山岳部部内雑誌Vol.VIII-8, 1937
3)伊藤愿:印度から、日本山岳会会報60号、1936年
4)今西錦司編:ヒマラヤへの道、中央公論社
5)越田和男:一枚の写真からー伊藤愿さんのアルプス行 山嶽寮、No.48,1993
6)伊藤愿:アルプス1951年、岳人、No.62,1953
7) 伊藤愿:マッターホルン単独行、日本山岳会会報161、1952
8) 伊藤愿:バウアーとの会見記、岳人、No.49,1952
9)日高信六郎:伊藤愿君を悼む 日本山岳会会報190号、1957年1月
10)田口二郎:伊藤愿さんの思い出 、山岳、51年、1958年pp,106-116
11)織内信彦:山と人と本、日本山岳会会報、2002年2月